2015年6月24日水曜日

ブルの前でネズミを滑らせる

「熱くなったら右に行く」の記事にめずらしく質問がきましたので、お答えいたします。

Bruker 社の NMR マシンで測定し、これを Topspin, Xwinnmr などでフーリエ変換する場合には、下記の要領で補正するとよいでしょう。

なお、下記は D2O にロックをかけることを想定していますが、d-DMSO などにロックをかける場合でも同じ要領です。

まず、ロックを掛けた後でもよいと思いますが、ロックの位相をできるだけきれいに合わせます。位相がベストの時にロック信号が最高となります。

1H の一次元スペクトルをできるだけ高分解能で測ります。そして、DSS のピークの中心を測ります。仮にそれが x Hz に観られたとしましょう(ppm ではなく Hz 単位です)。

EDP の SR というパラメータに x の値を入れます。そして、スペクトルを見直した時に、DSS のピークがちゃんと 0 ppm に来ていれば、1H の補正は成功です。

13C の補正については、DSS, TMS の 13C 直接測定で上記と同じように行う場合もありますが、ここでは計算による方法をご紹介します。

1H の基準周波数を調べます。BF1 と呼ばれるパラメータで、例えば 500.13 MHz のような値がセットされています。同様に、13C の基準周波数は BF2 に、15N の基準周波数は BF3 に保存されています。もちろん、BF1, BF2 は二次元や三次元測定のパラメータでないとセットされていないかもしれません。また、下記で SR(1H) とはパラメータ x のことです。

SR(13C) = (0.25144953 * BF1 - BF2) * 1000000 + SR(1H) * 0.25144953

この値を EDP での 13C の SR に入れます。

SR (15N) = (0.101329118 * BF1 - BF3) * 1000000 + SR(1H) * 0.101329118

この値を EDP での 15N の SR に入れます。

上記で SR(1H) が0であったと仮定します。すると、13C では -2.6668 ppm, 15N では -0.023467 ppm もずれていることが分かります。つまり、13C では真の化学シフト値よりも 2.7 ppm も小さい値が表示されてしまうのです。

BioMagResBank に登録する際には、もし上記の方法で補正したならば「1H については DSS を用い、13C, 15N については磁気回転比の値から補正した」とコメントすることになります。

もちろん、上記のずれが生じている事実を Br 社はよく認識しています。しかし、企業によっては何かしらの解析ツールを古い値を使ってすでに開発してしまっている場合もあり、バージョンの途中で正しい補正にしてしまうと、逆にさまざまな障害が予想されるのだそうです。

なお、毎回このような補正をするのは面倒だという場合には、マシンごとに、かつ、ロック溶媒ごとに、温度を変えた時の変換表を作っておくとよいでしょう。温度を変えながら DSS のピークを辿っていくと、非常にきれいな直線に乗ります。急いでいる場合には2点(5度と 40 度など)を測り、後は比例計算から補間してもよいでしょう。そして、1H, 15N, 13C の SR 値の式をエクセルに書いておけば、後はネズミを滑らせるだけで全て OK です。

2015年6月22日月曜日

熱くなったら右に行く

暑くなりました。ひょんな事から次のようなことを調べることになりました。ある蛋白質の NMR スペクトルを 30 度と5度で測定し、その 2D 1H-15N HSQC スペクトルを重ね合わせると、ピークの位置がかなりずれてしまっていたのです。最初は「あっしまった!温度を変えるとロックをかけている D2O の信号もずれてしまうので、基準周波数を変えないといけない。なのに、それを忘れてしまった。しかも、30 度と5度のスペクトルはまったく異なる NMR マシンで測っていたではないか!ならば、ずれて当然か?」と思いました。本当は蛋白質試料にちゃんと DSS を入れておいて、測定のたびに(ロックをかけるたびに)1H の 0 ppm の位置を調べておくべきだったのです。ところが、これを怠ってしまいました。滅多に起こることではないのですが、DSS はケイ素を含んでおり、このケイ素が蛋白質を沈殿させてしまうことがあるそうなのです。

悩んでいても仕方がありませんので、同じ NMR マシンで 30 度と5度とで、DSS, 蛋白質の 1H-13C HSQC, 1H-15N HSQC を測ってみることにしました。

実は、例えば某 Br 社のマシンを使っている場合、どのような温度であっても測定の最中には水の中心は 4.7 ppm であると仮定しないといけません。本当は温度によって水のピークの位置は変わるのですが、NMR マシンはそのような事は微塵も知りません。マシンが知っているのは、ただ軽水のピークが重水のピークと比べて、どれだけ比率の上でずれているかだけです。温度を変えると重水の 2H のピークがずれます。そして、それと同じ ppm 値分だけ観測している軽水の 1H のピークもずれます(同位体 1H, 2H の化学シフト値の変化は ppm 値で表している限りは同じ)。ロックの D がいくらずれても NMR マシンはそこが 4.7 ppm(2H)であると思い込んでいるので、観測される軽水の 1H のピークも常に 4.7 ppm(1H)で見かけ上あり続けるのです。

DSS の 1H のピークは温度によってあまり動きません。しかし、ロックの D のピークが温度によって大きく動きますので、それを基準にして DSS をみると、逆向きにおおいに動いていくように見えるのです。温度を下げると水の 1H の化学シフト値は本来は大きくなります。しかし、これを常に 4.7 ppm だと仮定してしまうので、DSS の 1H の化学シフト値は小さくなるように(マイナスの向きにどんどん進んでいくように)見えるはずです。したがって、某 Br 社のマシンを使っている場合「今日の試料の温度は低いから中心周波数 o1p を 4.8 ppm ぐらいにしなきゃ」というのは間違いです。

なお、軽水の中心周波数を精密に測定すると 4.7 ppm から少しずれている場合があります。これは Br 社に直してもらわないといけないところです。これが何故起こるかという理由はちょっと複雑です。おそらくですが、登録されている 1H と 2H の基準周波数の比が少し間違えているのでしょうか?例えば、1H と 13C の比はとんでもない値に間違えて登録されています。たしか、真の値から 2.666 ppm ほど小さい値が表示されたように思います。ですので、蛋白質の主鎖の 13Co の中心は本来は 176 ppm ぐらいのはずですが、Br 社のマシンでは 173 ppm と入れます。同様に、13Ca は 56 から 54 ppm に置き直します。なお、上記はロックの位相がちゃんと合っている場合に言えることです。位相をずらすと D2O のピークトップの位置もずれますので、周波数もずれてきます。そのため、本当はロックをかけるたびにその試料に混入させた DSS でキャリブレーションをしないといけないのです。

さて、結果は次の図のようになりました。これらは DSS のピーク位置をもとにフーリエ変換の後にスペクトルを平行移動させてあります。これによると、1H-13C HSQC ではメチル基領域でも Ca 領域でもあまり動いていないことが分かります。また、動いていたとしてもあっちこっちに動いているので、ある決まった向きに平行移動している(下駄を履いている)ようには見えません。一方、1H-15N HSQC では、明らかに水のピークと同じ向きに移動しています。つまり、温度を下げるとアミド 1H のピークは左向き(低磁場側)に動いているようです。

1枚目はメチル基領域の 1H-13C 相関スペクトルです。オレンジ色が5度、青色が 30 度で測定した時のピークです。



2枚目は 13Ca 領域の 1H-13C 相関スペクトルです。軽水のピークが5度では左側にずれているのが分かります。5度のオレンジのピークが薄いのは、低温で横緩和が速くなっているためです。


3枚目が 1H-15N HSQC です。軽水と同じ向きにアミド基のピークも動いています。



軽水のずれ幅を計算してみたところ、-0.0120 ppm/deg でした。しかし、 むかし別の NMR マシンで、温度を変えながら DSS のピークを追いかけたことがありました。その時は、-0.0111 ppm/deg で変化しました。何故このように違うのでしょう?もしかして、radiation damping によってピークが動く?しかし、あっても軽水の 1H のピークが少し動くぐらいで、DSS や D2O のピークまでいっしょに動いてしまうものでしょうか?それとも、なにか試料の磁化率が違うなど????マシンの温度は校正しているはずですし、試料も一応は Br 社の標準蔗糖溶液を使っている(はず?)です。

実は、NMRPipe には水のピークの位置を自動補正してフーリエ変換する機能がついているのです。そこで早速、上記のスペクトルを NMRPipe でフーリエ変換してみました。ですので、DSS のピークの位置はまったく考慮されていないことに注意してください。おかしなことに、NMRPipe では -0.00956 ppm/deg として補正されているようです(5度:4.964 ppm, 30 度:4.725 ppm)。ですので、今回の測定データを NMRPipe で処理すると、メチル領域でも少しずれて見えてしまいます。これはまずいですね。


それでは、なぜ amide 1H-15N のピークが温度によって動いたかです。1HN の化学シフトについては水と同じ向きに動いていることから、水素結合の強さに関連があるのかな?と思います。それはそうなのですが、

Tomlinson, J.H. & Williamson, M.P. (2012) J. Biomol. NMR 52, 57-64.

に興味深い結果が出ていました。原因は、水素結合に加えて、二次構造などの瞬間的な膨張によるのではないかとのことです。分子内で水素結合を組んでいるアミド基のうち、二次構造の中にあるアミド基の水素結合は強く、その二次構造が温度の上昇とともに瞬間でも全体的に緩むと、1H の化学シフト値の温度による変化も大きくなります。しかし、分子内で水素結合を組んでいるアミド基よりも、組んでいないアミド基の方がよく動くそうです(-0.0045 ppm/deg よりもさらに絶対値が大きくなる)。その理由は、後者は水と弱く水素結合を組んでおり、温めると容易に水素結合の長さが長くなってしまうためなのだそうです。最後に、15N の化学シフト値の温度による変化が何かしらの要因と相関があるかどうかについては、よく分からなかったそうです。