2024年12月28日土曜日

NMR で CNOT

素因数分解が NMR 量子コンピュータで解かれたのは 1998 で、それから早 26 年が経ちました。今ではむしろ NMR 以外のツールが量子コンピュータとして使われていますが、筆者にもっとも馴染みの深い NMR で、どのように量子的な計算がなされるのかは興味深いところです。

量子コンピュータの中で使われるゲートの中でもっとも基本的で、しかし重要なものは CNOT (controlled NOT) でしょう。制御ビットを Spin-I に、標的ビットを Spin-S とします。すると、CNOTゲートは、Spin-I が α( 0: 上向き)の時は Spin-S に対して何もしない、しかし、Spin-I が β( 1: 下向き)の時には Spin-S をひっくり返します。

1次元 NMR スペクトルを見ていると、上記の操作は比較的簡単にできそうであることに気づきます。例えば Spin-S が二重線に分裂していたとします。分裂する原因はすぐ近くにある Spin-I との J-coupling によるものです。つまり、Spin-I が α 状態にあるのか、それとも β 状態にあるのかによって、Spin-S の共鳴周波数が少しだけ異なり、この違いがダブレットという分裂した線形を生み出します。したがって、Spin-I が β 状態に対応する側(それがダブレットのうちの右側のピークか左側のピークかは J 結合定数が正か負かに依存しますが)に 180 度パルスを打って反転させればよいのです。それでは、Spin-S(Spin-I は β 状態)に位相 x で π パルスを打つための演算子を考えてみます。そのような演算子は

(式1)

となるでしょう。ここでは Spin-S の x 軸を回転軸として Spin-S を 180 度回転させることを想定しています。ただし、Spin-I が α 状態にある場合は何もしません。

この 4 × 4 行列を組み立てるには、Pauli の行列を用います。Iβ と Sx を表すそれぞれの 2 × 2 行列のクロネッカー積(ベクトルでいうところの外積)をとると

Iβ × Sx = {(0, 0), (0, 1)} × {(0, 1/2), (1/2, 0)}
= {(0, 0, 0, 0), (0, 0, 0, 0), (0, 0, 0, 1/2), (0, 0, 1/2, 0)}

となります。複素行列を指数とする冪乗の計算部分は少しややこしいのですが、とりあえずはこのような結果になると認めることにしましょう。

しかし、このような行列ではなく、理想的には次のようになって欲しいと思うところです。
(式2)

この演算子を、例えば状態 βα に作用させると、次式のように ββ になってくれます。

式1を式2に導くには、


のように exp(...) を二個ほど左側に追加します。ちなみに、この演算子が作用する順番は右から左になります。

しかし、これは NMR を考える際には、それほど気にしなくてもよいようです。なぜならば、実際に密度行列 Sz にこの Ucnot を作用させると(Ucnot . Sz . Ucnot^-1)となり、見かけの上では exp(-i π I β Sx) を作用させたのと同じ結果 2IzSz が得られるためです。確かに、Iz 周りの 90 度回転 exp(-i π Iz /2) は Sz や 2IzSz には影響しないですし、45 度の位相因子 exp(i π/4) も NMR の結果には特に影響しないように見えます。

いずれにしても、Ucnot は Sz → 2IzSz の変換を行う演算子となります。さて、ここでこの変換をよく見てみると、これは溶液 NMR に携わる人にとっては非常に馴染みのある変換であることに気づきます。しばしば INEPT や reverse INEPT で現れる変換です。

そこで、下図のような典型的な INEPT のパルス系列を想定してみます。INEPT の最後に Spin-I に π パルスを打っているのは、Spin-I のスピン状態を元の α か β 状態に戻すためです。

この演算子を計算していくと、最終的には、下記のような妙な行列となりますが、これも密度行列 Sz に作用させると 2IzSz が得られることが分かります。







これも Ucnot(式2)とは異なる数値ですが、Sz を軸に -90 度、Iz を軸に +90 度回し、さらに位相因子として exp(-i* π * 3/4) をかけると、なんと Ucnot ができあがるのです。z  を軸にしてスピンを回す z パルスというものは NMR に基本的にはありませんが、なぜ Iz 軸まわりに 90 度回さないといけないのかについては、興味の対象となるスピン Iz だけを見ていては分かりません。それ以外の Ix, Iy などが、この演算子によってどこに移動するのか、つまり、I や S のブロッホ球全体がどのように回転するのかまでを見ないと分からないのです。実際、この INEPT を Ix に施すと Spin-S との J-coupling が作用し、Iz を軸に 90 度の位相シフトが起こるはずです。

もし z 軸を中心として φ だけ回転させたい時には、まず x を軸に -90 度回す → y を軸に φ だけ回す → もとの x を軸に +90 度回して元の軸に戻せばよいのです。最終的には隣どうしで並んだ複数の x 位相のパルスを融合させることにより、もう少しシンプルなパルス系列にすることができます。パルス系列では、位相因子 exp(-i* π * 3/4) での補正はなされていませんが、NMR を観測する上では問題ないでしょう(この位相因子は J-coupling による展開に起因しているものと思われます)。また後述しますが、INEPT とは、制御スピン(Spin-I)が α か β 状態かに依存して、標的スピン(Spin-S)を反転させる操作でした。したがって、Spin-state-selective (S3) inversion などとも呼ばれます。

この先の内容は少し自信がありません。

初期状態は、Spin-I が α と β の重ね合わせ状態にあり、Spin-S が上向き α 状態にあるとします。この時、Spin-S を観測したとしても、Spin-I の状態を一義的に決めることができないので、これはエンタングル状態ではありません。ところが INEPT を経た後では、Spin-I が α であれば Spin-S は上向き α に、逆に Spin-I が β であれば Spin-S も β 下向きとなります。Spin-I で何が観測されるかによって、Spin-S で観測される結果が決まります。また、逆も然りで、Spin-S を観測すると Spin-I の状態を決めることができますので、これはエンタングル状態と言えます。なお、Spin-S の初期状態を下向きとした場合、Spin-I が α であれば Spin-S は下向き β に、逆に Spin-I が β であれば Spin-S は上向き α になります。これもエンタングルメントです。

Spin-I ベクトルが x を向いている時、この一個のスピンを z 軸に沿って観測すると、+1/2, -1/2 が等しい確率で現れますが、事前にどちらの値をとっているかは未定です。したがって、これは α 状態と β 状態の重ね合わせ状態になっているといえます。もし、Spin-S が α 状態であれば、この状態は (Iα + Iβ) Sα と表されます。これに INEPT を施すと、Spin-I が β 状態の時のみ Spin-S が反転するため、結果として IαSα + IβSβ となります。Spin-I を観測すると、それによって Spin-S の状態も分かるため、両者はもつれ合っていると言えます。

なお、初期状態で Spin-I ベクトルが z 方向を向いている時、これを z 軸に沿って観測すると、必ず +1/2 という値が返ってきます。よって、これは重ね合わせ状態にはありません。NMR 静磁場の中には、天球上のいろいろな点を向いたスピンベクトルが存在すると考えることができます。そのうち、Spin-I ベクトルの向きが赤道に近づくほど α:β が 1:1 の重ね合わせ状態に近づきます。静磁場の中では、Zeeman 相互作用のために、北半球を向いたスピンベクトルの方が若干多いことになりますが、今の議論では無視できるほどの差でしょう。しかし、DNP などにより北半球を向いたスピンベクトルの割合が圧倒的に多くなれば、90 度(hadamard)パルスを事前に打って、重ね合わせ状態を人為的に作る必要があるでしょう。この辺りは、個々のスピンを扱う量子コンピュータと、多くのスピンのアンサンブルを扱う量子コンピュータとの違いではないかと理解しています(間違えているかもしれません)。

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