そのようなわけで、大腸菌を重水中で培養する時には、10 → 30 → 50 → 80% のように段階的に培地の重水濃度を上げて培養し、大腸菌を重水に慣れさせる "adaptation" 処理が有効です。と書きながら、面倒くさいので、いきなり 100% 重水に大腸菌をつっこみ、そこでオリンピック選手として生き残ってきたものだけを釣り上げてくるというちょっと残酷なことをやったりもしますが。時々あてが外れて全滅することがあります。「一匹も生き残らないなんて、なんと重水は毒なんだ」と嘆きながら、無駄になってしまった重水 1 L (D2O > 30 万円 + 重水素化試薬 > 20 万円)を泣く泣く捨てることがあります(今は重水を精製して再利用しています!)。
それで、この重水への adaptation (適応、順化、馴化)ですが、中で何が起こっているのかという点については、私もよく知りませんでした。「遺伝子が変わってしまうのか?もし、そうだとすると、いちど adaptation が成功してしまえば、それをコンピテントセルとして使い続けられるので楽なのに」と思っていました。そこで、下記の論文の登場です。
Opitz, et al. (2019) Deuterium induces a distinctive Escherichia coli proteome that correlates with the reduction in growth rate. J. Biol. Chem. 294, 2279-2292.
彼らの実験によると、短期の adaptation であるので、遺伝子に変化は起きておらず、水素移動を伴うような酵素の発現量が増えて、触媒速度の低下を補っているというのが結論でした。ですので、重水に慣れた大腸菌を凍らせて保存しても、その適応性はかなり元に戻ってしまうかもしれません。完全に元に戻るとも思えないので、そのような大腸菌を解凍して次に使う際には、より簡単な適応処理で済むと思いますが。もっと何世代も重水に慣れさせると、遺伝子変異レベルでの adaptation が起こるでしょう。
論文内容に入る前に、なぜ蛋白質を重水素化するのかという点について簡単に触れておきます。2H は NMR では観にくい同位体です(ロックに使われていますが)。しかし、蛋白質を調製する際に、メチル基やアミド基の水素だけを 1H にし、残りの水素を 2H にすることができます。すると、その 1H の感度が驚くほど上がります(交差相関緩和による局所磁場の変動の低下 (俗称 TROSY 効果) + 交差自己緩和(俗称 spin-diffusion)の低下による)。また、13C-1H と 13C-2H の 13C 核スピンの横緩和速度を比べると、13C-2H の方がかなり遅く(磁気双極子横緩和の低下)、つまり、13C-2H の 13C の信号が長い時間生き残ってくれます。また、NMR だけでなく、中性子を使った解析では、1H と 2H は異なる散乱強度を示すため、水素の位置を精密に決めたり、逆に観えなくなるようにしたりなど、さまざまな工夫ができます。その他 MS にも使われます。また、2H を含んだ物質は分解が遅くなるということで、重水素創薬という分野もできています。もしかして、重水中で発酵させたお酒を飲むと、体内での重水素化エタノールの分解が遅くなり、長い時間酔うことができるかも(と以前、JPARC 関連の集会でどなたかが冗談を披露していました)。
もう一つ、2H とは何かについても。1H の原子核は「陽子」1個だけです。陽子のことを英語で proton と呼びますので、1H の原子核を proton と呼びます(H+ イオンも proton ですが)。一方 2H の原子核 deuteron は「陽子」1個と「中性子」1個とから成り立っています。ですので、質量が 1 ではなく 2 になります。普通の水(軽水)の分子量は 18 (=16+1+1)ですが、重水の分子量は 20 (=16+2+2) と1割ほど重いです。実際に 1 L の重水をもつと、ちょっと重いなあと感じます(経済的な圧迫のせいか?)。電子の数などは 1H も 2H も同じですので、物質の基本的な形などには大した影響をないでしょう。重水素化蛋白質では、ダイナミクスや安定性は少し変わるかもしれませんが、立体構造は同じでしょう。しかし、後述するように、水では重水素結合は(普通の)水素結合より強いので、水分子どうしが強く結びつき、4度の冷蔵庫に入れると凍ってしまいます。また粘土も高く、ちょっとドロドロしています(重水素結合が強くなるのかどうかについての記述は調査要、Ubbelohde 効果など)。
この研究では、大腸菌 BL21(DE3) の重水への適応過程を、質量分析(MS)を使った網羅的プロテオーム解析で調査したようです。酵素反応において、水素(H)が重水素(D)に置き換わることによって反応速度が変化する(一般的に低下する)現象を「動力学的同位体効果(Kinetic Isotope Effect, KIE)」と呼びます。O−H や C−H などの化学結合と比較して、対応する O−D や C−D などの化学結合を切断するために必要な活性化エネルギーが増加し、その結果、反応速度が低下します(C-D の共有結合の長さは、C-H に比べて 0.005 Å ほど短くなるそうです)。また、蛋白質の構造を維持している要素の一つに水素結合(N-H --- O=C など)がありますが、この H が D になると、この水素結合が少し強くなります(と思っていましたが、逆の記述もあるので、ここはもう少し慎重に調べないといけません)。すると、酵素の活性部位や全体の構造がわずかに固くなるかもしれません。これにより、酵素が基質と結合したり、構造を変化させて反応を触媒したりする際に柔軟に動きにくくなり、結果として反応速度が遅くなることもあるかもしれません。また(pH ではなくて) pD は 0.4 ほど高くなります(25 度)。つまり、pD 7.4 が中性([D+] = [OD-])となります。
この論文によると、蛋白質、脂質、DNA の溶媒を D2O に置換すると、これら生体分子は少しだけですが安定化するそうです。これは重水素結合が強くなるからでしょうか?しかし、これらの分子を重水素化すると、不安定化するそうです。水素結合に関与する -N-H などでは、この H が溶媒の D に自然に置き換わるのに対して、重水素化の場合は、-C-H などの H がアミノ酸の生合成中に D に換わるので、もう後から溶媒を軽水にしようが何にしようが、この D は離れません。そして、-C-H 結合長が少し短くなるので、蛋白質分子中に少し隙間ができてしまうのかもしれません。このように、蛋白質などでは、溶媒を重水に置換した際に置き換わる切断可能な labile 水素(-N-D, -O-D, -S-D)と、発現菌を重水培地で培養して調製した、結合が固定された水素(-C-D)の2種類がありますが、両者を頭の中でごっちゃにならないように注意しましょう。前者が主に水素結合に関与します。
大腸菌 BL21(DE3) 株を用い、通常の LB 培地(プロトン化完全培地)から M9 最少培地、さらに完全重水 M9 培地(99.8% D2O, 97% 重水化グルコース)へと段階的に馴化させました。その結果、成長速度はそれぞれ 1.8 → 0.67 → 0.37 /hr と低下しました。一方、光学顕微鏡およびクライオ電子顕微鏡観察では、細胞形態や内部構造にほとんど変化は観られなかったそうです(過去の論文には、かなり形が変わったとの報告があり、いったい両者の結果の違いは何に起因しているのでしょう?)。
プロテオーム解析では、全条件で 1,849 種類のタンパク質をトリプシンで分解し、shotgun LC-MS/MS で同定し、そのうち数百の発現量が有意に変動しました。LB 培地から最少 M9 1H 培地への移行では、アミノ酸合成系、糖代謝関連酵素が大幅に誘導されました(7 → 13%)。その他、TCA サイクルの一部の酵素、グルコースの取り込みに関する酵素なども増加しました。逆に、翻訳関連タンパク質群(リボソーム蛋白など)の発現が低下しました(36 → 27%)。アミノ酸の分解に関する酵素も減少しました。M9 最少培地にはアミノ酸が入っていないので、まずはこのアミノ酸を生合成しようとしたのでしょう。そして、最少培地の中でエネルギー源となるのはグルコースだけですので、それを取り込む酵素が増えたのは理にかなっています。とはいえ、やはりアミノ酸不足による体力低下は完全には克服できず、結果として翻訳系の蛋白質を減らしてしまいました。そして、それが最少培地では大腸菌の成長が遅い直接的原因であると予想されています。
さらに、最少 1H 培地から重水素化最少 2H 培地への移行では、より広範な機能群にわたって発現量が変動しました。翻訳関連タンパク質はさらに減少し(27 → 22%)、成長速度もそれに比例して低下しました。しかし、先ほどとは異なり、アミノ酸合成系の蛋白質の量に大きな変化はなかったことから、翻訳系が低下した理由はアミノ酸が不足したためではないことになります。実際、翻訳系蛋白質の減少の理由ははっきりとは分からないそうです(これが原因で大腸菌の生育が遅くなったのは確かではあるが)。
個々のタンパク質機能を詳細に調査したところ、発現量が増えたタンパク質の約 8 割が水素移動を伴う酵素であることが分かりました。水素移動を伴う反応には、炭素鎖物質の生合成や分解、リン酸化、脱リン酸化などがあり、これらは解糖系、糖新生、TCA サイクル、アミノ酸代謝、核酸代謝、ATP 駆動型エネルギー転移などに存在します。代表的な上昇因子には、グリコーゲン代謝酵素、脱水素酵素、リン酸化酵素、トランスアミナーゼ、酸化還元酵素が含まれます。これらの増加は、重水によって遅くなった水素移動反応の速度を補うためと考えられます(水素移動反応が遅くなるケースもあり、その場合も対応する酵素の発現量の減少で補正しているとのこと)。
一方で、膜輸送体や核酸代謝酵素の一部は減少し、脂質二重層の相転移温度の低下や膜流動性の増加など、重水素化による物理化学的変化が膜タンパク質の安定性・機能に影響していると考えられます。また、RNA ヘリカーゼ、DNA 修復関連酵素など核酸代謝関連酵素の発現変化も顕著であり、転写・翻訳過程そのものの効率低下に関与している可能性が示唆されました。さらに、恒常性維持やストレス応答関連タンパク質の変動も認められたとのことです。
バクテリアにとって重水のような培地に入れられる経験をしたのは、この 30 億年ぐらいの中で初めてではないかと思います。よって、重水の池に落ちた時のための準備なんて事前にしているはずはなく、それでも大量の酵素の発現量を調整して、この難局に立ち向かう(さらに、その中で遅いながらも成長していく)姿には目を見張るものがあります。何個かの酵素の発現量を間違えてしまってもおかしくないのですが、よくバランスをとれるものですね。教科書で習った転写因子やリプレッサなどだけで、そこまで出来るものなのでしょうか?
(余談) LB 培地で大腸菌を培養してタンパク質を発現させると、うまくフォールディングせず、目的のタンパク質がすべてインクルージョンボディ(封入体)として沈殿してしまうことがあります。これは、翻訳速度が速すぎる場合に起こることが多い現象です。そこで、あえて M9 最少培地で培養すると、栄養分が少ないため翻訳速度が遅くなり(あるいは mRNA 上のリボソーム渋滞が緩和され)、インクルージョンボディが形成されにくくなる場合があります。必ずしも毎回そうなるわけではありませんが、結果的に LB 培地よりも M9 培地の方が精製タンパク質の得られる量が多いこともあります。
培養温度を下げたり、IPTG 濃度を低く設定するのも、転写や翻訳速度をあえて遅くするための工夫です。特に真核生物のリボソームは、原核生物のものに比べて進行速度が遅く(およそ 1/10 程度 ?)、フォールディングに合わせたコドン使用が最適化されています。そのため、真核生物由来の遺伝子をそのまま大腸菌に導入すると、ある箇所でリボソームが停止したり、逆に速すぎたりといった問題が生じ、本来の真核生物での翻訳タイミングとは大きく異なってしまいます。これが、真核生物由来タンパク質を原核生物でうまく発現できない理由の一つです。
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